• かんなみ仏の里美術館の仏像群

        
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平成24年4月14日に開館した【かんなみ仏の里美術館】には、桑原の薬師堂で長い間守られてきた仏像群(全24体)が移されて、火災や自然災害などから守られています。これで仏様たちも安住の地を得ました。

かんなみ仏の里美術館の仏像群
地域
桑原
名称
かんなみ仏の里美術館
分類
文化遺産・仏像群
住所
静岡県田方郡函南町桑原89-1

Information

 
あり-無料-10台
 
JR東海道線・函南(かんなみ)駅から徒歩約30分
 
あり
その他
近くには、売店・食堂はありません。

見どころ

桑原・薬師堂
桑原・薬師堂
幕末から明治期に始まった廃仏毀釈の嵐が来た際に、桑原の二つの古いお堂に祀られていた仏像は、高源寺の物置に避難しました。
廃仏毀釈の嵐が過ぎた明治三十年代に、長源寺の境内にお堂を建立して、仏像群は新たな居場所に移されました。
  • 薬師堂内の仏像群
    薬師堂内の仏像群

    薬師堂内では、二十二体の仏像と二体の高僧像が祀られ、保護されてきました。

もっと見る(阿弥陀如来・他-22)

  • 阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)
    阿弥陀三尊像

     実慶作・国指定重要文化財・鎌倉時代初期 脇侍として、如来から向かって右に勢至菩薩・左に観音菩薩を従えます。

     阿弥陀如来は、【西方極楽浄土】にいて、【南無阿弥陀仏】の念仏を唱える者を、臨終の際に極楽浄土から菩薩たちと共に、迎えに来ると信仰されています。

     阿弥陀如来の両手は親指と人差し指で丸く輪を作った下品上生の来迎印を結んでいます。

     脇侍の勢至菩薩は、大いなる知恵で、私達の迷いを取り除いてくれます。観音菩薩は、私達の願いを観て、聞いて苦難から救ってくれます。

     この三尊像は、北条時政が石橋山の戦いで死んだ長男・宗時の慰霊のために、慶派の仏師・実慶に造らせて、桑原に墳墓堂を建立して安置したものとされています。

     阿弥陀三尊像は、いずれも檜の一木から彫った像を前後に割って、内部をくりぬくことで乾燥による干割れを防ぎ、重量を減らしています。

     阿弥陀如来像は鎌倉時代初期の運慶・快慶に代表される慶派の特徴である武士好みのはつらつとした作風で表現されています。面長なお顔には水晶でできた玉眼がはめられており、目じりがいくらか上がっています。また両脇侍像も、平安時代の仏像とは異なり、腰を捩じったように写実的に表現されています。表面には黒漆が塗られ、金箔を押して仕上げる漆箔です。長い年月により金箔はほとんどはがれてしまいました。

     三尊像の内面には、【仏師・実慶】と書かれており、今まで幻の仏師とされていた実慶の作品4体の内の3体を当館で鑑賞できます。阿弥陀如来が坐っている蓮華座は、鎌倉時代初頭の蓮華座の特徴を最もよく表す模範となるものとして高く評価されています。平成3年には、大英博物館で開催された[日本の鎌倉時代展]のメイン作品として出展され、世界の人々を魅了しました。

     阿弥陀如来三尊像は、歴史的に美術的に貴重なものであることから、国の重要文化財に指定されています。

  •  阿弥陀如来像と聖観音・子安地蔵は、元禄八年に、高源寺(新光寺?)の住職が修復を発願し、村役人ら祈願しました。修復に当ったのは当時大竹に住して、光明院を再興していた相州・一之沢浄発願寺の徒弟・蓮誉華空法阿であったことが、過去帳に記されています。

もっと見る(薬師如来・他-21)

  • 薬師如来坐像
    薬師如来坐像

    (県指定有形文化財・平安時代中期)

     薬師如来は、この世のはるか東の瑠璃光浄土に、日光菩薩、月光菩薩、十二神将たちといます。人々の病を取り除き、貧困や苦難などから救い、現世利益をもたらす如来として、人々の信仰を集めました。左手には万病に効くという薬が入っている薬壺を持っています。

     この薬師如来坐像は、榧の木の一木割矧造で、円満なお顔立ちとまとった衣の表現や豊かな体つきは定朝様式の特徴が見られ、平安時代中期に制作されたと推定されます。素地造りで彩色されていません。作者は不明ですが、平安時代の様式を継承する仏師の作と考えられます。筥根山縁起幷序という古文書には、弘仁八年ここ桑原に新光寺という寺が建立されたとの記載があり、この地ではこの薬師如来像がその寺の本尊であったと伝えられてきました。

もっと見る(十二神将・他-20)

  • 十二神将

    (県指定有形文化財・鎌倉時代~江戸時代)

     薬師如来の周りに並ぶ仏像群は十二神将と呼ばれ、薬師如来と如来を信仰する人々を守るために、甲冑をつけた武将の姿をして、それぞれが7千人の眷属(兵隊)を率いていることになります。

     頭にはそれぞれの干支の動物をつけ、方位や時刻の守護神としても信仰されています。

     十二神将像は、鎌倉時代初期に造られました。その後の地震や山火事などで破損したため、鎌倉時代に四体、南北朝から室町時代に四体、江戸時代に一体が補修されています。東日本に現存する十二神将像のほとんどが、室町時代以降の作で、小型の仏像が多い中、ここの十二神将像は鎌倉時代の三体を残し、像高が一メートル前後と大きく、十二体すべてが揃っていることは全国的にも貴重です。

     仏像群を美術館に移した後に、薬師堂を掃除していたら、奥から昭和11年の新聞紙に包まれた手足などの部品がたくさん見つかりました。下の写真では手足が無い仏像も今では修理されています。

  • 毗羯羅大将
    (びから・子神)
    毗羯羅大将(子神)

    (鎌倉末期~南北朝)

  • 招杜羅大将
    (しゃとら・丑神)
    招杜羅大将(丑神)

    (鎌倉初期)

  • 真達羅大将
    (しんだら・寅神)
    真達羅大将(寅神)

    (鎌倉末期~南北朝)

  • 摩虎羅大将
    (まとら・卯神)
    摩虎羅大将(卯神)

    (鎌倉中期)

  • 安底羅大将
    (あんてら・申神)
    安底羅大将(申神)

    (鎌倉中期)

  • 迷企羅大将
    (めきら・酉神)
    迷企羅大将(酉神)

    (鎌倉末期~南北朝)

  • 伐折羅大将
    (ばさら・戌神)
    伐折羅大将(戌神)

    (鎌倉末期~南北朝)

  • 宮毘羅大将
    (ぐびら・亥神)
    宮毘羅大将(亥神)

    (鎌倉中期)

  • その他の十二神将

    波夷羅大将(辰神・鎌倉中期)、因達羅大将(巳神・鎌倉末期~南北朝)、珊底羅大将(午神・鎌倉末期~南北朝)、頞倆羅大将(未神・室町~江戸初期)の4躯は撮影時に修復中だったため、撮影できませんでした。仏の里美術館HPでご覧ください。

もっと見る(残り-12)

  • 聖観音
    聖観音

    静岡県指定有形文化財(平安時代末)
    小筥根山・新光寺ゆかりの仏像と考えられ、地蔵菩薩像と一対で祀られていたと推測されます。

  • 地蔵菩薩
    地蔵菩薩

    静岡県指定有形文化財(平安時代末)
    小筥根山・新光寺ゆかりの仏像と考えられ、聖観音菩薩像と一対で祀られていたと推測されます。

  • 毘沙門天
    毘沙門天

    静岡県指定有形文化財(平安時代後期)
    毘沙門天は、足下に邪鬼(人の煩悩の象徴)を踏んで撃退している姿をしています。

  • 伝・月光菩薩
    伝・月光菩薩

    薬師堂にあった当時は、薬師如来の脇侍である月光菩薩として扱われていました。

  • 伝・日光菩薩
    伝・日光菩薩

    薬師堂にあった当時は、薬師如来の脇侍である日光菩薩として扱われていました。

  • 不動明王像
    不動明王像

    美術館移転後、薬師堂内から宝剣や羂索、火炎光背などが見つかり、不動明王であることが確定しました。

  • 伝・経巻上人像
    伝・経巻上人像

    函南町指定有形文化財
    箱根神社を開祖した万巻上人の弟子のひとりの経巻上人の像と伝わります。

  • 伝・弘法大師像
    伝・弘法大師像

    地元では、弘法大師像と伝わりますが、定かではありません。

  • 伝・新光寺跡
    伝・新光寺跡

    箱根神社を開山した万巻上人の菩提を弔うために、弘仁八年(増訂豆州志稿)桑原に小筥根山新光寺と呼ばれる寺院が建てられました。場所ははっきりとしませんが、ハナモモが育てられている畑あたりと伝えられます。

  • 伝・新光寺跡の礎石?
    伝・新光寺跡の礎石?

    新光寺跡といわれるハナモモの畑には、柱状節理の大きな石があります。新光寺に関係ある石なのでしょうか? オコリ石やカンカン石と呼ばれています。

  • 廃・平清寺跡
    廃・平清寺跡

    平清寺は新光寺の子院で、北条時政がここにあったお堂に阿弥陀三尊像を祀ってからは阿弥陀堂と呼ばれていました。


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