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函南町に伝わる伝説・昔話などを拾い集めてみました。

こだま石
伊豆の七不思議のひとつに、函南町・平井にあるこだま石が取り上げられています。
丹那・こだま石
 昔、平井の村に、「おらく」という母親が息子の「与一」と二人で暮らしていました。

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 夫は戦に駆り出されて行方知れずになっており、大変貧しい暮らしをしていましたが、あるとき村のお寺の和尚の勧めで、ふたりして峠を越えた熱海の湯治場へ商いに出かけるようになったといいます。

 この熱海へ行く途中の峠には、大きな岩があり、商いに出かけるたびにこの岩のそばで休みながら語らうのが二人の習慣でした。

 商いのほうはなんとか軌道に乗り、母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃のこと、おらくは病を得て帰らぬ人となってしまいました。

 与一は悲しみのあまり、母と共に語らった大岩に向かい、声をかぎりに母を呼び続けたところ、岩の底から「与一よー、与一よー」と懐かしい母の声がこだましてきたといいます。

化け猫
毎年夏に開催されている函南の猫踊りは、軽井沢に伝わる昔話を町おこしに活用したものです。
軽井沢・化け猫
 むかし、天保のころの話です。あるあたたかな春の夜のことでありました。軽井沢の藤蔵さんは、隣村の田代に行き、夜ふけて家へもどって釆ました。村ざかいのさみしい竹薮のところまで来ると、薮の中からみょうな話し声がきこえて来ました。

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 こんな夜ふけに、だれだろうかと、足をとめてきき耳をたてていると、たしかにいく人かの声がするのでした。

 「どうだ、みんな集まったかい」「いや、まだ上の白が来ていないぜ」「白のやつ、いつもは早いくせに、今夜にかぎってどうしたずら」と話し合っているのでした。

 そんな時、ガサガサとだれかの歩く音がすると、「やっと、上の白が来たぜ]という声がききとれました。「なんだよ、こんなにおそくなって、お前が来ないばっかりに、踊りがはじめられないじゃないか。」と、親分らしい者の声がしました。

 そして、「××屋のとら、○○屋の三毛、×のくろ、○屋のぶち、□やの玉」とたしかめるように呼びました。「みんなそろったようだ、ぼちぼちはじめるか」というと、ほかの者が、「白やい、今夜はお前が笛を吹けよ!」いうのでした。

 すると、「今夜はおれはだめだ、笛は吹けないよ」「どうしてだ!」「おれは今夜夕飯に熱いおじやを食わされ、舌をやけどしてしまったよ。」などやりとりしていました。

 しばらくすると、親分らしい者が、「しかたがない、それでは今夜は踊りはできねえ、お開きにしよう。」というのでした。ほかのものも、しかたなく、「そうしよう、そうしょう。」と、みなガサガサ音をたてて、どこへともなく行ってしまいました。

 このようすを、きき耳をたてて聞いてしまった藤蔵さんは、(おかしなこともあるものだ)とおもいながら歩き出しました。(それにしても、もの好きな人もあったもんじゃ、薮の中で笛を吹いて踊るなど聞いたこともない。それに、白、ぶち、くろ、三毛、玉なんて、みんな猫の名前だ)と、あらためて思いなおしました。

 藤蔵さんは、おそろしくなり、急いで家に帰ると、かみさんにきくのでした。「猫の白に今夜は何を食わしたな。」「なんにもなかったもんで、残りのおじやをくれました。」

 かみさんの返事に藤蔵さんはびっくりして、村ざかいでの出来ごとを話したのでした。かみさんも(とんだ、化猫を飼ってしまった)と思うのでした。こうなっては、なんとかうまく化猫を追いはらう方法はないかと、相談するのでした。

 あれこれ考えたすえ、かみさんが、「あんた、いい方法がありますよ。」「どんな方法だ。」「それは、あんたが村ざかいで聞いた猫の話が本当なら、白は人間のことばがわかるはずです…あんたが、よく話をすればきっと、話を聞きわけてどこか行くにちがいありませんよ。」というのでした。藤蔵きんはしかたなく、あしたにでもなったら話してみることにしました。

 あくる日、囲炉裏のわきにうずくまっている白を捕えて、藤蔵さんは話しました。「白よ、お前はなあ、どうも人間のことばがわかるらしいのでいうのだが、うちでお前を飼っているのは、踊りをおどったり、夜ふけに笛を吹いたりするために、飼っているのではないぞ。もし、お前がそんなことをしているのなら、うちで飼っておくわけにはいかない。どこかへ行ってくれないか。」

 すると、その日の夕方から白の姿はどこにも見えなくなりました。 やっぱり村ざかいでの、猫の出来ごとは本当だったのでした。

 (原話 函南町軽井沢 渡辺宗正氏)

あばれ鹿
塚本の興聖寺の襖絵には、4つの火縄銃弾の跡があります。まんが日本昔話で[あばれ鹿]というタイトルで放送されました。
興聖寺・あばれ鹿
昔、伊豆は函南村(かんなみむら)の辺りでは、夜な夜な2頭のつがいの大鹿が現れ、田畑を荒らしまわるので、村人は大層困っていた。

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 そこで村人は、猟師の勘七(かんしち)に大鹿を退治してくれるよう頼んだ。勘七は火縄銃を持つと、猟犬とともに狩野川(かのがわ)の川べりにやってきた。そこで夜が来るのを待ち、大鹿を待ち伏せようというのだ。

 さて、夜になると、勘七が思ったとおり2頭の夫婦(めおと)の大鹿が手前の畑に現れた。勘七は、大鹿を火縄銃が撃てる所まで引き付けるため、猟犬を大鹿の後ろからけしかけた。猟犬にけしかけられた大鹿は、勘七の目論見どおり勘七の前に走って来る。

 ところが、2頭の大鹿は勘七の目の前で大きく飛び跳ねたのだ。勘七は不意を突かれたものの、かろうじて雄鹿を撃つことが出来た。しかし、勘七の放った弾は確かに雄鹿に命中したのだが、不思議なことに雄鹿の姿はどこにも見当らなかった。

 夜が明けてから勘七が辺りを見回すと、2頭の鹿の足跡が村の方へと続いている。勘七が足跡を追うと、それは興聖寺(こうしょうじ)の境内で途切れていた。勘七が住職に事情を話し、寺の本堂を調べていると、勘七の猟犬は住職の寝室の方に向かって吠えている。

 勘七が寝室を開けると、そこには見事な夫婦の鹿の襖絵(ふすまえ)があった。勘七が近づいて見てみれば、なんと雄鹿の胸には勘七に鉄砲で撃たれた傷があるではないか。

 この大鹿の襖絵は、さる高名な絵師によって描かれたもので、その出来栄えがあまりに見事だったゆえ、ふすまの中から大鹿が現れ出たのだった。しかしこの夫婦の大鹿、勘七に鉄砲で撃たれてからは、恐れをなしたのか、襖の中から出て来ることは二度となかったそうだ。

源頼朝
源頼朝
 源頼朝は、十三歳の時に、韮山の蛭が島に流罪となり、その後二十年余りの年月を伊豆で暮らしました。その間、伊豆の各地に出かけて、多数の伝説を残しています。函南町の伝説のいくつかを紹介します。

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高源寺

 頼朝が源氏再興の旗揚げを企て、文覚上人と極秘裏に密会したといわれます。山木館の討伐後に、石橋山での大庭影親らとの戦いに出字する際に、旗揚げをしたといわれています。

弦巻山

 石橋山の合戦に敗れた源頼朝が七人の家臣とこの山に分け入ったという。木立は生い茂り、つる草がまといつき通ることができないので、一同弓弦をはずし巻いて通ったので、弦巻山の名が起こったという。

鬢の沢

 頼朝が伊豆山権現に参詣のためこの地を通り、路傍の木かげに腰を下ろした。ふとかたわらに、清水が流れているのに気づき、のどをうるおし、乱れかかった鬢の毛をなでつけ、元気を回復した。これより鬢の沢の名がおこったといわれている。

軽井沢

 源頼朝が伊豆山に参拝する時、のどが渇いて水を求めたら土地の人が沢の水を汲んで差し上げたところ、”穴軽き水哉”と喜んだことから、[軽澤]と名付けられました。[井]は後から加えられたと言われる。

蛇が橋

 頼朝が三島明神に源氏再興祈念の参拝に通っていたある日、大雨にあい間宮まで帰ってきたが出水のため橋が流されて渡れない。そこへ大蛇が現れ橋代わりとなって渡してくれたという伝説があります。

六萬部寺・経塚

 源頼朝が韮山蛭ヶ小島に配流中、父祖の冥福と源氏の再興を念じ自ら衆僧とともに法華経六萬部を読誦したという伝説に結びつけたとされています。

地神様

 文覚上人が頼朝を伴い、この塚上より富士山を眺望し、天下人たる者は富士山のように泰然として下から崇め畏敬される仁徳を積むように諭したといわれる。塚上には、地神として埴安之神の石碑が祀られています。

駒形堂の観世音
 軽井沢の弦巻山の中腹に昔駒形堂という一草堂がありました。(現在は、泉竜寺の寺域に移されています。)
駒形堂
承平六年、平将門が関東下向の時、この地を過ぎたが、折悪しく乗馬が病気になって進むことができなかった。

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 さすが勇猛の将門も、馬の病気を治すことができなかった。弱っていると里人が駒形堂の観世音に祈れば、必ず霊験があるからと教えられて、一心に駒形観音に祈った。

 霊験は忽ち現れて、乗馬の病は拭うが如く全快した。喜んだ将門は馬頭観世音の像をつくり、安置した。

 駒形堂の馬頭観世音は[馬の神]として近郷近在にその名が知れわたった。将門の寄進した馬頭観世音は後に泉竜寺の本尊仏になった。

円通寺のあばれ馬
源頼朝の愛馬・池月に関する伝説が丹那に伝わります。
円通寺のあばれ馬
 畑の寺洞に円通寺という寺があった。この寺に馬が一匹飼ってあったが、おそろしい気のあらい馬で人を傍へよせつけなかった。

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 はじめのうちは丈夫な縄でつないであったがも忽ち切ってしまうので、ついに二本の縄で、左右へしばっておくようにしたが、それでも時々縄を切った。そのたびに寺の和尚さんや寺男が骨を折った。

 [厄介な馬だ。誰か貰い手はないものか。引き取ってくれる者があれば、少しはお礼を出しても良い、]といったが、有名な円通寺の駿馬である。手を出す人は誰もいない。で、あばれ馬はとうとう円通寺から追放せられて寺の後の密林へはなされた。

 馬は思うままに原生林の中を駆けまわった。狭いうまやから解放された駿馬は、生きた青草をはみ、流れる小川の水を飲んで生活した。林の奥に[血松の小池](現在の牧場の池といわれる)があった。老樹が枝を交えて雨さえとおさないほど繁った岸の一隅は駿馬の起き臥す場所になっていた。

 源頼朝が駒形堂の観世音に参詣のためこの地を過ぎた。乗馬していた愛馬[磨墨]がしきりにいなないた。すると林の奥から勇ましい馬のいななく声が響きわたった。

 頼朝は妙に馬の声に魅せられた。林の中に入ってみると、毛並美しい稀代の駿馬がとび出した。やがて頼朝の面前に引き出された。円通寺のあばれ馬は直ちに頼朝の行列に加えられた。そとて、[池月(池好)]と命名された。

 後、宇治川の先陣に、佐々木高綱をのせ、勇名をとどろかした名馬[池月]は円通寺のあばれ馬である。

軽井沢・毘沙門天
軽井沢の泉竜寺境内に毘沙門堂があります。昔は伊豆山道の弦巻山の登り口にあったそうです。このお堂に関する伝説が残ります。
軽井沢・毘沙門天
寿永三年、一人の旅僧がやってきた。日もくれようとするときで、峠も越し難く軽井沢の民家に一夜の宿を頼んだ。其の家の主人は心よく一夜の宿をした。

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 その夜は大雪が降り、とても、この大雪では峠を越えられないので宿の主人は今一日滞在するようにすすめたが、鎌倉に急用があるのでと、この荷物をしばらく預かったくれといって旅だった。

 その後軽井沢の定光寺の僧の夢にあらわれ、村の見晴らしのよい場所に祭ってくれというお告げがあり、この話をしたところ、さきの荷物の中から毘沙門天があらわれ、これを祭ったという。定光寺はその後廃寺となり、今の泉竜寺に合併され、毘沙門堂も同じく泉竜寺境内に移した。

男坂・女坂
日守と伊豆の国市江間との間に静浦山地が連なっているが、日守下から北江間へ通ずる坂が[男坂(雄坂)]で、日守区中里から北江間へ通ずる坂が[女坂(雌坂)]です。
男坂・女坂
源右府の家臣に江間小次郎(江間小四郎・義時)という者がいた。昔、その小次郎が水溜まりの古い池で釣り糸を垂れていた時、池にいた大蛇が突然姿を現わして傍にいた若君を呑んでしまった。

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 小次郎は、憤り且つ勇気を出して大蛇を退治することに努めた。

 すると、池の底が鳴り動き、二匹の大蛇が池の中から躍り出た。小次郎は大蛇を打ち殺そうとした。すると、二匹の大蛇は二つの坂を越えて、狩野川沿いに浮島ヶ原に飛び去ってしまった。

 小次郎は、打ち取ることが出来なかったので残念無念と左右二手に分かれて大蛇の跡を追ったが、取り逃がしてしまったと。その時、女蛇の通った跡を女坂(雌坂)と言い、男蛇の通った跡を男坂(雄坂)と呼ぶようになったという。

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